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文化分解

デザインの世界でひたすら走り続け、気がつけば恐ろしや早くも三十有余年にもなる。文化と経済は車の両輪と云われながらも、わが日本では文化は未だに経済の脇役に甘んじ、心の豊かさや生活の潤いは暗中模索の只中にいる。このプログでは、少々の脱線は予測されるものの、文化を基軸にしたものにしていきたい。
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赤穂坂越・室津
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    赤穂は日本の塩の代名詞であり、また忠臣蔵の故郷でもあります。赤穂を訪ね、四十七士ゆかりの地を巡るとともに塩の赤穂のいしずえを担った港町・坂越を訪ねます。また、奈良時代の高僧行基が開いた港町、御津町室津もあわせて訪ねます。
    室津港

    義士の故郷 播州・赤穂
    今から298年前の元禄14年(1701)3月、江戸城松の廊下で勅使接待役の浅野内匠頭長矩が、指南役の吉良上野介吉央を刃傷に及ぶ一大事件が発生。長矩は即日切腹、浅野家は取り潰しに。そして1年9カ月後の12月14日、家臣大石内蔵助良雄以下四十七士は、吉良邸に討ち入り、みごと吉央の首を打って主君のあだを討つ。明けの元禄16年(1703)2月、義士たちは切腹、その終焉を告げます。この二つの事件を合わせたのが「忠臣蔵」です。

    江戸時代に建てられた赤穂城
    白亜の隅櫓や大手門、本丸門が、四十七士の生きた元禄の世へと誘います。浅野長矩の祖父長直が、常陸から5万3千5百石で転封されたのは、正保2年(1645)。赤穂城は、その3年後の慶安元年に着工、13年を費やし完成しました。武家諸法度により、新規の築城が制限された江戸時代にあって、築城が許された珍しい城郭です。 義士をまつる大石神社 大石良雄宅跡を境内に含む大石神社は、大正元年(1912)に創建。四十七士を祭り、大石邸長屋門をはじめ、義士宝物殿、義士木像奉安殿などが配されています。長屋門は、主君の刃傷、切腹の凶報をもたらした使者がくぐった遺構で、門内には、内蔵助や妻りく、子の主税がそぞろ歩いたであろう庭園が広がり、当時の面影を今に残しています。義士宝物殿には義士ゆかりの武具や書画が展示され、義士木像奉安殿には、平櫛田中制作の浅野長矩像をはじめ著名木彫家による義士像が納められています。

    浅野家の菩提を弔う花岳寺
    浅野家初代赤穂藩主の長直が、入国した年に建立。浅野家、永井家、森家の歴代藩主の菩提寺で、境内には四十七士の墓や鳴かずの鐘などがあり、義士ゆかりのお寺となっています。

    塩と義士の歴史博物館
    蔵を思わせる外観を、内堀の水面に映す赤穂市立歴史博物館は、赤穂特産の塩と義士に関連する資料が多数集められています。正面玄関を入ると、まずは長さ7・5メートルの千石積塩廻船の三分の一模型が目に入ります。一階の赤穂の塩のコーナーでは、実際に塩田で使われていた製塩用具をはじめ、赤穂が塩の代名詞ともなった入浜塩田の解説や模型が展示されています。二階の赤穂義士のコーナーでは、一連の事件が史実に基づいて解説され、入館者の興味をそそります。

    御崎に残る赤穂の塩
    わが国の塩づくりの歴史で最も長い歴史を持つ製塩法が入浜塩田です。昭和27年に流下盤・枝条架法が現れるまでの約400年間、この製塩法が主流を占めてきました。入浜塩田は、川のデルタや砂浜に大規模な防潮堤を築き、その中に造られました。地盤面は満潮と干潮の中間で、潮の満ち引きを利用した塩づくりです。赤穂市立歴史博物館と田淵記念館の両館長を務められている文学博士廣山尭道先生によると、赤穂が外部へ塩を売り出すようになったのは、江戸時代初期からで、千種川のデルタ一帯に西浜と東浜の塩田が開け、広い時には400町歩(1町歩は約1ha)もあったそうです。大きな塩田地帯に意外と港がないのは、海浜一帯が遠浅のためで、隣接の港が、その積み出しを担ったようです。赤穂の場合は、その港が坂越で、御崎の沖合に待つ江戸・大坂からの塩廻船や坂越の船にはしけで運んでいました。 塩田跡地につくられた塩の国 昭和47年に、塩田が不要なイオン交換樹脂膜法が工業化されると、赤穂に限らず全国の塩田という塩田が姿を消していきました。赤穂の広大な塩田も、これを契機に他の用途を模索、工業団地や発電所、公共施設へと変わっていきました。そんな中、東浜の塩田跡地約72haを利用してつくられたのが、ファミリーパークの県立赤穂海浜公園。園内には遊技施設の「わくわくランド」をはじめ、オートキャンプ場など家族そろって楽しめる施設が盛りだくさん。この園内に、塩の赤穂ならではの市立海洋科学館・塩の国があり、入館すると、この施設内の塩田で作られた天然塩の袋詰めがプレゼントされます。館内は「瀬戸内海と塩」をテーマとした情報がわかりやすく展示され、また屋外の塩の国では、揚浜、入浜、流下式それぞれの塩田が復元され、塩づくりの実験や塩田作業が体験できるようになっています。

    日本一の塩田地主の収集品
    川口屋と称して江戸時代から塩田、塩問屋、塩廻船を営んだ御崎の田淵家は、最盛期の文化・文政期(1804〜30)には、約100町歩の塩田を所有した日本一の塩田地主でした。当時の塩田の生産力は高く、水田に比べ10倍から良い年には何と20倍もの収入になったと言われています。田淵家の100町歩は、水田に換算すると1000町歩で、石高一万石に相当します。当時の赤穂藩主森家の石高が二万石であったことから、田淵家がいかに繁栄していたかが想像できます。田淵家が代々にわたり収集してきた茶道具などの美術品や古文書類は、平成6年に市に寄贈され、田淵記念館として一般公開されています。

    赤穂名産、鯛の塩釜焼き
    本業が鮮魚店の「とみはら」は、生きのいい魚介類を活かし、仕出しや食事処も営んでいます。この店の人気料理は、焼きあなごと鯛の塩むし。どちらも赤穂の名産として知られていますが、もう一品加えるとすれば、鯛の塩釜焼きです。鯛を塩水に1時間程つけた後、2〜3kgもの塩を使って丸ごと包み込みます。塩はもちろん天然の赤穂塩で、卵白を加え、こねることによって、固めやすい粘土状にします。形を整え、串やへらでウロコやヒレを描き、オーブンで40分ほど蒸し焼きにすると出来上がります。仕込みから2時間程もかかるため、予約が必須。塩が鯛の脂っぽさを抜き、身がよく締まっています。塩味で旨味が増し、香ばしさが食欲をそそります。

    船渡御の坂越
    弧を描く海岸線と湾内の生島によって、坂越浦が形成されています。地元の方いわく、「ほどよい深さがあり、朝になると山間から海に向かって適当な風が吹く」ことから、潮や風を待って出航するのに適した港だったようです。塩処の隣にあって、出船入船で賑わった坂越の町をのぞいてみましょう。 藩主も休んだ旧坂越浦会所 千種川から坂越浦まで大道とよぶ旧街道が延びています。海に行き当たった交差点角に、江戸時代の天保年間に造られた旧坂越浦会所が建っています。明治まで会所として使用され、昭和には一時、公会堂にも使用されたとか。二階には、赤穂藩主の休憩所ともなった観海楼があり、その名の通り、窓から美しい坂越浦や遠く家島群島が望めます。

    廻船問屋だった奥籐家
    旧坂越浦会所から旧街道をすすむ道沿いの町並みは、坂越が廻船業によって栄えてきた面影を色濃く残しています。中でもひときわ大きな建物群が西国大名の本陣にもなった奥籐家です、赤穂塩や諸国の産物を運ぶ廻船業で財をなし、酒造業、塩田、金融業などの事業をおこしました。現在も酒造りは続けられ、寛文年間(1661〜73)から続く酒蔵は健在です。奥籐家は年2回、塩を積み込み瀬戸内海から日本海を北上。陸奥湾内の野辺地や田名部で材木を、酒田で米を積み、大阪へ運んでいました。敷地内には、奧藤酒造郷土館があり、酒造りや廻船・漁業の資料が展示されています。

    活動拠点の坂越まち並み館
    坂越では、住民と行政が一体となり、貴重な町並みを保存、育てていく活動が行われています。その拠点が、坂越まち並み館。来訪者も気軽に立ち寄り、坂越の歴史や文化情報を得ることができます。館内に大きな黒い金庫があり、かつて銀行であったことを物語っています。

    坂越の氏神、大避神社
    644年に起こった蘇我入鹿の乱を避け、坂越に辿り着いたと言われる秦河勝を祭る大避神社は、毎年10月に行われる船祭りがよく知られています。生島にあるお旅所を14隻の和船で往復する船渡御で、祭りの各場面でさまざまな雅楽が演奏される厳かで勇壮な祭りです。

    和船建造の伝承者、湊さん
    大避神社の祭礼用和船をはじめ、木造船の新造や修復に腕をふるう湊隆司さんは、坂越でただ一人となった船大工です。作業所内には建造中の木造船があり、その奥で十分の一のミニチュア船が造られています。木材はもとより、船釘や舳先の彫り物に至るまで、本物と違わぬ精巧なもの。「手間は原寸の船を造るのと変わりません」と湊さん。日本の木の文化である和船の技術を後世に伝承するため、ミニチュアづくりにも精を出されています。歴史博物館に展示の千石船のミニチュアも、湊さんが一年がかかりで造った作品です。

    摂播五泊の 室津
    坂越から国道250号を東進、相生の市街地を過ぎると、道は海岸線を縫うように進む播磨シーサイドロードへと入って行きます。しばらく走ると、西に小さく口を開いたコの字型の港が目に入ります。さらに近づくと、その岸壁には一分の隙もないほどに無数の漁船が行儀よく並んでいます。「此の泊 風を防ぐこと 室の如し 故に因りて名を為す」。これは播磨国風土記に記された室津の名の由来ですが、天然の良港を言い得て妙なる一節です。奈良時代の僧行基が開いた摂播五泊の一つ、御津町室津を歩いてみましょう。 往時をしのぶ室津海駅館 室津が最も栄えたのは、参勤交代が行われた江戸時代です。西国大名の行列は、こぞってこの港に上陸、宿場としました。室津の町家が二階建てで部屋数が多いのも、多くの泊まり客ヘの対応から。本陣も6カ所を数え、当時の繁栄ぶりが想像できます。肥後屋、肥前屋、紀伊国屋、筑前屋、薩摩屋、一津屋。これら本陣の建物は、老朽化による建て替え期を昭和40年代に迎え、次々と消えていきました。そんな中、廻船問屋を営んだ豪商嶋屋の建物は今日まで残り、室津海駅館として、往時の建物の姿を伝えています。

    豪商魚屋の室津民俗館
    嶋屋とともに残った建物が、魚屋と号し、海産物や雑貨の商いで栄えた豊野家です。23もの部屋をもち、脇本陣も務めた豪商の建物は、現在、室津民俗館として、内部が公開されています。珍しい吊り上げ式の戸を備えた玄関や、箱階段、御成門と呼ばれる貴人専用の戸、二階上段の間などに加え、古地図や古文書類などが数多く展示され、貴重な文化遺産となっています。

    平清盛も祈願した賀茂神社
    室津の港を見下ろす賀茂神社への石段を上っていくと、ソテツの群生があり、続いてひづめをつけた馬足龍の彫り物で異彩を放つ唐門に。門をくぐると、壮大な本殿と回廊が現れます。平安の昔、平清盛がこの社に立ち寄り、航海の安全を祈願したと伝えています。海に目をやると、沖合に三つの小島からなる唐荷島が浮かんでいます。万葉の詩人山部赤人が「玉藻刈る辛荷の島に島廻する、鵜にしもあれや家思はざらむ」と詠んだことでも知られています。

    遊女友君の墓がある浄運寺
    木曽義仲の第三夫人とされる友君は、義仲の死後、室津に移り住み、船人の旅愁をなぐさめたことから、遊女の始祖といわれています。法然上人が讃岐に流される途中、室津に寄港し、友君に出会ったと伝えられています。法然上人二十五霊場の一つ、浄運寺の境内には友君の墓があり、静かに瀬戸の海を見下ろしています。

    赤穂坂越・室津を写真付きで紹介
    http://arp-design.com/culture/akousakoshi.html

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    | 兵庫 | 17:05 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
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