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文化分解

デザインの世界でひたすら走り続け、気がつけば恐ろしや早くも三十有余年にもなる。文化と経済は車の両輪と云われながらも、わが日本では文化は未だに経済の脇役に甘んじ、心の豊かさや生活の潤いは暗中模索の只中にいる。このプログでは、少々の脱線は予測されるものの、文化を基軸にしたものにしていきたい。
古事記にのめりこんで思わぬポカ
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    京都から大阪までの片道1時間半ほどの通勤時間を居眠りや考え事に費やすにはあまりにもったいなく、これはと思った本をネットでまとめて購入したり、立ち寄った本屋でこれはというものを買い求め、片っ端から読むようにしている。大阪の歴史を知る上で、関連する書籍を読んでいると必ずといってよいほど古事記からの引用が出てくる。そんな訳で昨年も読んだのだが、引き続き今回も梅原猛さんによる別の古事記を読んでいる。国生みの編では八百万(やおろず)の神が次から次と登場して、2冊目にしても訳が分からないが、天孫降臨に移ると次第に神がいつしか天皇に変わっていく。その天皇が浮気したとか、いちゃついているとか、出会ってすぐ結ばれたとか、やたらおおらかな表現が出てきてはらはらする。
    そんなストーリーの中にどっぷりと浸かっている最中に思わぬポカをしてしまった。
    大阪での仕事を打ち切る時間は、お付き合いがない限りは、ほぼ毎日、同じ時間帯の同じアクセスで自宅へ帰る。着くのは午前0時前の11時から11時半の間。今日土曜日は、何を思ったかいつもより30分ほど早く帰ろうと思い立ち、そそくさと机の上を片付け、地下鉄長堀駅に。まもなく電車が到着し、空いた席に深々と座る。やおらカバンから古事記を取り出し、読書の始まりだ。15分ほどで、いつものように乗り継ぎする淡路駅に着く。本をしまう。ここで梅田から来た京都河原町行きの特急か快速急行に乗り換える手はずだ。やはり、ホームに降り立つと、間髪入れず梅田方向から嬉しい電車が着いた。すぐさま乗り込む。ホームを離れるとすぐに聞き慣れない駅名を告げるアナウンスが車内に流れ、普通電車に乗ってしまったことがわかった。この時間帯は普通が連絡しているのだ。JRをやめて今年から阪急に交通手段を変えた自分には初めて乗る普通だ。今日は土曜日。30分早めに出たことだしまあいいだろう。まもなくどこかの駅到着で、はす向かいの席が空き、待ってましたと座るや本の続きを読み出した。読みながら、断片的に駅名がボーッと耳に入ってくる。豊中?、関大前?なんか変だ。続いて山田??「モノレールをご利用の方は、、、、」あーっ!乗っている電車が京都に向かっていない。茫然自失で、その駅で降りることもできずにいると、終点北千里のアナウンスが無情にも車内にしっかりと響いた。いつもなら、長堀橋で地下鉄に乗り入れしている阪急北千里行きの電車に乗り、淡路駅で河原町駅行きの電車に乗るのだが、全く行き先を確認せずに乗ったがための結果である。思わぬポカで今日はいつもより30分ほど遅く帰宅したのであった。


    | その他 | 01:52 | - | - | - | - |
    惜別の水曜日
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      そういう歳になったと言われればそれまでだが、それにしてもこの年末から年始にかけては、知己の不幸が信じられないほどに続く慟哭の日々となり、正月気分は元旦のみと惨憺たるものとなってしまった。

      1月2日(水)、50歳半ばにして一人の高校同期の友人が亡くなった。彼はコダックでの東京勤務時代に大腸がんを患い、手術後にやむなく退社し、自宅のある奈良・生駒の地で療養していた。同窓有志の助言もあって、関西での同窓会を立ち上げることとなり私と二人して発起人となり、幹事となって、思い出づくりの集まりをはじめたばかりであった。告別式で棺に納まった彼の顔の表情が、心なしか同窓会の最中に見せる穏やかな顔であったことが、暗く沈んだ私へのせめてもの慰めになった。思い起こせば、亡くなる前日の元旦に彼から届いた年賀状の無言のメッセージが、最後の言葉であった。年末ギリギリに出した私の年賀状を手にすることなく。
      続いて、ちょうど一週間後の9日(水)、20数年来、デザインの仕事で一番信頼できるフォトグラファーが忽然と逝ってしまった。奥様から故人の遺志により家族だけで密葬を済ませましたとの一通の葉書が舞い込み心を強く打った。モデル撮影、料理撮影、小物の撮影などなど。私と感性が不思議と合って安心して任せられた。振り返れば、いろいろな撮影シーンが次々とよみがえる。昨年の春に、会社案内の制作の仕事で一緒に大阪市内のビル群を撮影して回ったことが最後の仕事となってしまった。
      さらに一週間後の16日、しかもまた同じ水曜日。今度は愛知県立芸術大学在学中に、小柄でありながら、男性教師陣を後ろに従え、風を切るがごとく颯爽と学園内を闊歩されていた文化勲章受賞者で日本画家の片岡球子先生が、長命を全うされたとはいえ逝かれてしまった。最近のテレビを通しての映像からも、ますます創作意欲旺盛なパワーが感じられ、作品展があるたびに足を運び楽しみにしていたのだが、、、、、合掌。
      そんな三週連続水曜日の不幸が続いて、よもやと取り出した寒中見舞いの葉書。それは昨年12月5日に亡くなられた私の一番の恩師である小学校の担任の先生のご子息からのものであった。女性でありながら算数の先生で、厳しい先生ではあったが、なぜか私は叱られた記憶はほとんどなく、今にして思えばよくかわいがっていただいたことばかりが思い出される。卒業以来、その先生には毎年年賀状を出し続けてきた。また先生もデザインをしている私の手の込んだ賀状を楽しみしていただいたようで、喪中の年でも構わず送って欲しいと言われたものだ。だから、これ以上に多く出した相手は他に思い当たらない。そんな母親に近い存在の先生でもあった。

      はたと胸騒ぎし、まさかと思いつつ去年のカレンダーを取り出し12月5日に目をやると、何と!水曜日ではないか。
      | その他 | 02:09 | - | - | - | - |