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文化分解

デザインの世界でひたすら走り続け、気がつけば恐ろしや早くも三十有余年にもなる。文化と経済は車の両輪と云われながらも、わが日本では文化は未だに経済の脇役に甘んじ、心の豊かさや生活の潤いは暗中模索の只中にいる。このプログでは、少々の脱線は予測されるものの、文化を基軸にしたものにしていきたい。
湖上交通で栄えた堅田界隈
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    堅田は琵琶湖の西岸、大津市北部の本堅田町・今堅田町一帯を総称して呼ばれています。湖上交通の権益により、中世の堅田は歴史的にも壮大な自治都市を築いていました。また、近江八景のひとつ「堅田の落雁」でも知られる風光明媚な姿は、琵琶湖のなかでも一級品と言われており、多くの文学作品等に描写されています。そんな堅田の町を、堅田の市民グループ「湖族の郷」実行委員会会長の細川源太郎さんに案内していただきます。

    湖族と文学で歴史を築いた堅田の足跡をたどる
    11世紀末に京都下鴨神社の祭神を祀った分社(神田神社)が堅田に置かれたことで、琵琶湖の湖上交通の権益を一手に取り仕切ることになった堅田は、琵琶湖で最大の自治都市を築きました。その中心となったのが、通称”堅田湖族“と呼ばれる侍階級の殿原(とのばら)衆と殿原衆以外の町衆(全人(まろうど)衆)たちだったのです。琵琶湖に浮かぶ浮御(うきみ)堂の辺りから琵琶湖大橋までを湖岸に沿って北上していくことにします。まずは本町通りから浮御堂方面へ。「この辺りは殿原衆がたくさん住んでいたんですよ。」迷路のように入り組んだ路地のなかに、立派な家や蔵が建っており、財力をもっていた当時の殿原衆の様子がうかがえます。また、全人衆の本拠地であった本福寺や、殿原衆と全人衆が町の運営等についての会議を行っていたという伊豆神社、湖上交通の安全を願って建立したという浮御堂など、堅田湖族にゆかりのある場所も数多くあります。浮御堂から堅田港へは湖岸沿いの遊歩道を。瓦屋根に虫子窓の家並みを左手に、右手には太陽にきらめく琵琶湖を眺めながら歩いていると、芭蕉をはじめ、吉川英治、城山三郎など多くの文人が堅田の町を描写した気持ちがうかがい知れるようです。ほどなくすると、観光船が発着する堅田港につきます。桟橋や横の水路に釣を楽しむ人が数人いるだけの静かな趣。港の入口に文学碑がひっそりと立っていました。「桟橋につく。左方の繁みから、浮御堂の瓦屋根が、その微妙な反りによって、四方へ白銀の反射を放っている。……」三島由紀夫が描いた小説「絹と明察」の一節。情趣にみちた堅田の風情が描写されています。「ここは、今も小説のなかの雰囲気が残っていますね。」ただ観るだけではなく、文学を通して堅田の町をイメージすることもできるのです。堅田港から堅田漁港までは、湖魚佃煮店や呉服屋などの老舗の商店や、かつて舟が往来していた堅田内湖(ないこ)からの水路など、郷愁漂う光景が続きます。また、当時殿原衆の党首であった居初家もあり、琵琶湖と近江富士(三上山)を含む対岸の湖東の山並みを借景とした名園「天然図画(ずえ)亭」を観ることができます。しばしの休息をとり、居初(いそめ)邸から堅田漁港、関屋の浜へと向かいます。関屋の浜からは琵琶湖大橋の優美な曲線が日差しを浴びて輝き、手前には出島(でけじま)の灯台と造船所の古い建物が、また昔ながらの家並みものぞき、漁港ムード溢れる情景です。最後に出島の灯台へ行ってみました。地元の船大工仲間が湖上安全、漁民済度を祈願して明治 年に建てた木造式の灯台は、湖上を渡る船をいつも優しく見守っていたことでしょう。多くの文人が堅田に魅せられたように、旅情感たっぷりの堅田の町を一度訪れてみられてはいかがですか。素朴な味わいが、心に安らぎを与えてくれるのではないでしょうか。
    | 滋賀 | 00:27 | comments(0) | - | - | - |