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文化分解

デザインの世界でひたすら走り続け、気がつけば恐ろしや早くも三十有余年にもなる。文化と経済は車の両輪と云われながらも、わが日本では文化は未だに経済の脇役に甘んじ、心の豊かさや生活の潤いは暗中模索の只中にいる。このプログでは、少々の脱線は予測されるものの、文化を基軸にしたものにしていきたい。
紀文にちなんで表示された沖乃白帆
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    紅葉の色づきのはじまりとともに果物の主役がミカンに変わろうとしている時節であるが、スーパー等に陳列されるミカンのサイズを表す表示といえば、アルファベットでM、S、2S、3Sなど。ところがミカンの産地和歌山では昭和30年代までは、みかん箱にスタンプで押されたサイズ表示は「沖」「乃」「白」「帆」。
    かつて紀文こと紀伊国屋文左衛門が千石積みの『天神丸』で、ミカンを積んで大しけの中を江戸に向け命がけで出航し、潮岬を越え、熊野・遠州灘を突っ切り、江戸に着いたことから、市中の評判となり、誰いうとなく、『沖の暗いのに白帆が見える あれは紀の国 みかん船』と唄われるようになったとか。この唄に出る沖、乃、白、帆がいつの間にかミカンのサイズ表示に使われたとは、また風流なことである。デジタル化の現代にあって、少しはこのような遊びがあってもいいのではないだろうか。

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    | 和歌山 | 01:46 | - | - | - | - |
    みかんを知るには、紀州を訪なうにしかず
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      橘
      橘本神社境内の橘
      下津・有田・湯浅
      紀伊水道の東に面し、北から南へ下津・有田・湯浅の各港町が連なりを見せています。「みかんを知るには、紀州を訪なうにしかず」といわれ、とりわけこの三つの町は、みかんの話題には事欠きません。みかんを糸口に各町の歴史や風土、文化にふれてみましょう。

      みかん伝播のルーツ
      みかんといえば、今や温州みかんが一般的ですが、この品種が栽培されるまでの明治中期以前は、紀州みかんが主流でした。小みかんとも呼ばれ、あの正月の鏡餅にのせる小ぶりのみかんです。かの紀伊国屋文左衛門が、みかん船で江戸に運んだのが、この紀州みかんです。みかんをはじめ、ザボン、橙、柚子、オレンジ、レモンなどを総称して、柑橘と呼びますが、紀州・和歌山の柑橘栽培、それは日本の柑橘栽培ともいえますが、その伝播の歴史は諸説紛々です。まずは古事記・日本書紀に、田道間守が、常世の国(今の中国大陸)から非時香果、いわゆる橘を持ち帰り、下津町に移植、次第に広まったという説があります。ところが、橘は古来から日本に自生しており、実際に持ち帰ったのは、橙という説もあったりします。下って、永享年間(1429〜1440)、有田市糸我に橘が一本自生していて、年々実を結び、これが蜜のような味であったことから、蜜柑(みかん)と名付け、他へ広まったという説。はたまた、天正2年(1574)、同じく糸我の伊藤孫右衛門が肥後八代からみかんの苗木2本を持ち帰り、それが広まったという説等など。みかん伝播のルーツはミステリアスです。 謎の人物、 紀文 紀州みかんといえば、紀伊国屋文左衛門こと紀文をさけては通れませんが、紀文大尽ともいわれたほどの元禄時代の豪商が残した足跡は、それを裏付ける文献が極めて少なく、生没年も不祥の謎の人物といえます。紀文伝の一端を紹介し、ありし頃を想像してみましょう。「紀州では、大しけが続き、みかんが滞貨し、大暴落となった。紀文は、その機に乗じてみかんを安値で買い占め、千石積みの『天神丸』で、大しけの中を江戸に向け命がけで出航。潮岬を越え、熊野・遠州灘を突っ切り、江戸に着いたので、市中の評判となり、誰いうとなく、『沖の暗いのに白帆が見える あれは紀の国 みかん船』と唄われるようになった。荷揚げされたみかんは、一籠一両という高値で、またたく間に売り切れた」その後、「紀文は材木問屋を営み、江戸大火の際の材木買い占めなどで莫大な巨利を得た」また、「紀文の豪遊はすさまじく、吉原の廓のすべての店を買い切り、升に入れた大判小判をまき散らし紀文大尽といわれた」等など。実在した人物ですが、伝説化された話も数多く残り、調べるほどに謎は深まります。では、下津から有田、湯浅と巡りましょう。
       
      国道42号で下津町に入り、トンネルを抜け、下の交差点を右折、加茂川沿いを下りていくと、下津港に。古くから加茂川流域の加茂谷では、みかん栽培が盛んで、この港を通じて出荷されたようです。紀文がみかん船を出したのも下津港との言い伝えから、「船出の地」の石碑が港を見おろすように建っています。現在、港を囲むようにみかん畑が広がり、碇をおろす貨物船に甘酸っぱい香りを届けています。

      菓祖、田道間守を祀る橘本神社
      かつて下津から有田、湯浅と熊野古道が通っていました。平安時代の後期、上皇や貴族が、たびたび熊野三山(本宮・新宮・那智)に参詣したことから、しだいに武士や庶民へと広まった熊野詣。その参詣の人々が通った街道には数多くの王子が設けられました。下津にも4ケ所の王子がありましたが、明治40年(1907)の神社統合令により、所坂王子のあった地に塔下王子、橘本王子、さらにみかんと菓子の神様とされる田道間守が合祀され、橘本神社として今に残っています。上代における菓子とは水菓子、つまり果物のことで、その果物の頂点に立つのが橘でした。記紀には、西暦61年、田道間守が第11代垂仁天皇から不老長寿の霊菓を探し出すよう命を受け、常世の国から非時香果、すなわち橘を持ち帰ったと記されています。その橘が最初に移植されたのが、この神社近くの六本樹の丘で、改良を重ね、日本の銘菓になったといわれています。初めて菓子がつくられたことから、全国のみかん・菓子商人から崇敬され、毎年4月3日、全国の製菓会社が集まって菓子祭りが催されます。

      歴代の紀州藩主が眠る長保寺
      初代紀州藩主となった徳川家康の子、頼宣は、産業振興としてみかん栽培を奨励しました。国道42号上の交差点を左折して間もなく目に入る長保寺は、長保2年(1000)、一条天皇の勅願によって創建されたお寺です。紀州家の菩提寺として歴代の藩主が眠り、貴重な建造物が残っています。大門・本堂・多宝塔がすべて国宝で、これは法隆寺と長保寺のみの希有な例とか。仁王像が納まる大門をくぐり、青石で組んだ階段を上り切ると、正面に本堂、右手に多宝塔が端正な姿で浮かび上がります。背後の山の斜面に広がる廟所とともにあたりを静寂が支配しています。また境内には、町立歴史民俗資料館があって、下津町の歴史・文化が紹介されています。現在、熊野古道展が今秋の9月30日までの会期で開催中。街道沿いの茶屋を模したものをはじめ、熊野参詣図や王子跡の写真パネルなどが展示され、ありし往還の様子が楽しく観覧できます。

      みかんの集積地
      有田川河口に集積したみかん 紀伊国名所図会(1851年刊行)には、みかんの収穫から廻船に積み込むまでの当時の模様が何枚かに分けて描かれています。鈴なりのみかん山で、実を摘みとり、籠に入れ、てんびん棒で麓へ下ろしている様子。中庭に集めたみかんを選別し、籠に詰めている様子。次に平田舟で運んできたみかん籠を、有田川河口の中洲へ積み上げている様子。それを瀬取船に再び載せて、沖合いで待つ廻船に積み込んでいる様子です。当時のみかんの出荷が、子細によく伝えられています。有田一円のみかんが集められた河口の北湊には、蜜柑方と呼ばれる共同出荷組織が設置され、大正13年、箕島に鉄道が通じるまでの約300年間にわたり、大いに賑わいました。名所図会に描かれた中洲は、浚渫等で今はなく、一抹の寂しさを感じさせます。 紀文の前に籐兵衛あり 徳川頼宣が、産業振興にみかん栽培を奨励したのは、有田川流域の平野が、さほど広くなかったことから。滝ヶ原(現在の有田市宮原)の籐兵衛が、寛永11年(1634)、400籠の紀州みかんを初めて江戸に出荷したところ、たちまち評判となったとあります。当時、みかん一籠半(一籠約15キロ)が一両もの高値で売れたとあり、紀文の50年程も前にすでにみかんの出荷で成功をおさめた人がいたのです。その後、年々出荷量は増え、販路も広がり、元禄11年(1698)には25万籠にも達したといわれます。当初、糸我や宮原の里からはじまったみかん栽培は、周辺地域へと広がっていきました。有田川の堤をゆく国道42号の左右は、見わたす限りのみかん山で、脈々と引き継がれてきたみかんへの先人の思いが伝わってきます。 もの知り「みかん資料館」 JR箕島駅の南、有田川にかかる橋のたもとに有田市文化福祉センターがあり、4階が有田ならではのみかん資料館です。和歌山の柑橘栽培の歴史や現状を紹介、中でも小粒ながら目を引くのが、「沖」「乃」「白」「帆」の4つのスタンプ。和歌山のみかんの階級は、今でこそ、MとかS、2S、3Sなどとアルファベットで表示されていますが、昭和30年代までは、みかん箱におされたのは、この「沖」「乃」「白」「帆」で、Mが沖、Sが乃、2Sが白、3Sが帆。こんなところにも紀文が生きています。

      太刀魚漁獲量日本一の有田
      有田市は太刀魚の漁獲量日本一。そのほとんどが水揚げされる箕島港は、有田川の河口左岸にあり、平成9年の太刀魚の漁獲量は年間3422トンにも上ります。通常見かける漁港の光景と明らかに違うのが、構内にびっしりと並んだリヤカーで、その数、実に7〜800台。箕島漁港では、漁船から水揚げされた魚は、リヤカーに載せられ競り場に引かれていきます。異常とも思える数の多さは、リヤカー単位で取り引きされる独特の販売方法にありました。競りが始まる昼の3時頃ともなれば、縦横無尽にリヤカーが引き回されるのを目にすることができます。

      有田温泉と名物魚料理
      休日ともなれば、多くの釣り人が集まる有田市西端の矢櫃海岸は、かつて紀州藩の御料漁場にもなったほどの魚の豊富な所です。今から370年ほど前、その海岸近くの岩層からお湯が湧出し、露天風呂となり、人々に金玉泉、子宝湯と呼ばれ親しまれたと言われています。この湯元を昭和42年、掘り下げたところ、良質の温泉が吹き出し、有田温泉と命名されました。有田観光ホテルでは、この名泉をひき、趣向を凝らした大浴場や露天風呂で、観光客の人気を集めています。さて、有田の名物魚料理をご紹介しましょう。まずは幻の魚ともいわれるクエの鍋料理。当ホテルにはクエ鍋目当てのお客様も多いとか。ここ10年程で急に有名となったクエとは、大平洋側西日本に生息するハタの仲間で、体重が150キロの大物もいます。頭と口が異常に大きく、奇怪な容貌は一度見れば忘れないほど。白身魚で適当に脂がのり、味はたんぱく。20キロものが一番美味しいとされ、2月中旬までの冬ならではの料理となっています。一方、その名の通り太刀状の体をした太刀魚。光り輝く銀白色ゆえに、体表からとったグアニンは模造真珠の光沢用として使われます。ホテルでは、見事な包丁さばきで、長い太刀魚の特徴を生かし、螺旋状にあしらった活け造で食卓に出しています。しこしことした歯ごたえのある本場ならではの料理です。

      醤油の発祥地
      憩の松の碑が物語る湯浅港 山田川の河口には、多くの漁船が繋がれ、魚市場もあって、港町の風情を今も残しています。かつて湯浅港は物資の集積地として江戸時代から出船入船でにぎわい、みかんをはじめ、特産の醤油の積み出し港として大いに繁栄しました。港の憩いの場として松20数本が植樹されたいわれを書いた石碑が港の片隅に建ち、往時を伝えてくれます。 紀文碑が建つ勝楽寺 別所の薬師さんとして地元で親しまれている勝楽寺。過去帳から紀伊国屋文左衛門の戒名が発見されたことから、湯浅が生誕の地として脚光を浴び、境内に紀文碑が建てられました。建立は昭和34年で、そのための浄財を拠出した有力者の一人が、和歌山県出身の松下幸之助さん。石碑の左右の灯ろうには氏の名前が刻まれています。江戸時代の文化・文政年間には、92軒もの醤油屋が軒を連ねたといわれる湯浅は、醤油発祥の地として知られています。北町の小路に足を踏み入れると、醤油独特の香りがします。その香りの主が、天保12年(1841)創業の手づくり醤油の老舗角長です。建長元年(1249)中国の径山寺で修行を積んだ法燈国師が、金山寺味噌の製法を習って帰国、湯浅にその醸造法を伝授。日本独自の調味料である醤油が誕生した発端は、この味噌製造の際、樽の底に沈澱した液汁を調味料としたことから生まれたとされています。角長のこだわりは、24個の仕込桶すべてに、今も吉野杉の木桶を使い続けていることからも伺えます。原材料も江戸期と同じで、完成まで平均1年3ヶ月もの手間をかけ、本物の味がここから生まれます。敷地内には、かつての仕込蔵を利用した醤油記念館「職人蔵」があり、醤油づくりに使われた道具類が公開されています。さらに新館も開設、大福帳や年貢帳、醤油容器等が展示されています。角長の建物裏手に回ると、醤油を直接船積みしたという大仙堀、別名醤油堀があり、山田川から湯浅港へ通じています。かつて海路で醤油が出荷された面影が偲ばれます。

      中国から伝わった金山寺味噌
      法燈国師により、湯浅に伝えられた伝統の金山寺味噌。角長と同じならびの一角に暖簾を垂らし、明治の頃は醤油づくりを営んだ太田久助吟製は、3代目から金山寺味噌づくりに転換、今日に続いています。建物内には、醤油を造っていた頃の名残となる赤レンガの煙突や麹室などがあり、味噌づくりに活かされています。味噌といえば普通は汁ものを想像しますが、この金山寺味噌は、なめ味噌と呼ばれるもので、温かいご飯の上にそのままのせたり、お茶漬けにして食べます。製法は、米・大豆・丸麦を水に浸し、蒸した後、種麹を入れて混ぜ合わせ、発酵させて麹をつくります。これに塩漬け後、塩出しした丸茄子、白瓜を混ぜ、生姜、紫蘇、調味料で味を整え、樽詰めします。重しをのせて50〜60日待つと独特の風味を持った金山寺味噌のできあがり。醤油とともに湯浅の特産として愛用されています。

      下津・有田・湯浅を写真付きで紹介
      http://arp-design.com/culture/shimotsu.html

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      | 和歌山 | 01:30 | comments(0) | trackbacks(1) | - | - |